アジアの若年中皮腫患者の交流報告:韓国

北海道札幌市 田中奏実

2019年10月27日に韓国・ソウルのソウル大学で、「アジア・アスベスト禁止ネットワーク」(A-BAN)の会議が開催されました。A-BANは、2009年にアジア諸国のアスベスト禁止を求める各地域の市民団体や労働組合、研究者らによって結成された団体です。2009年のカンボジア・プノンペンでの会議を皮切りに、インドネシア・バンドン、インド・ジャイプールなどでアジア地域におけるアスベスト禁止に向けて議論を重ねてきました。

今回は日本から、私と石綿対策全国連絡会議の古谷杉郎さん、関西労働者安全センターの酒井恭輔さんが参加されました。会議の中皮腫若年患者の交流セッションも企画され、私の他に香港のロ・ライヤンさん(38歳)、韓国のイ・ソンジン(27歳)さんが登壇しました。会場にはいろいろな国の方がおり、英語と韓国語の通訳が入りました。一人ひとりの自己紹介後は座談会でした。

ロ・ライヤンさんは、クリニックから病院へ行き、緊急の手術をされました。私立病院でも治療は困難で公的な病院に戻ったそうですが、医師が中皮腫を診察したことがなく、慎重に診断を行ったそうです。「ようやく中皮腫と診断されました。病気自体はそこまで辛くはなく、運が良かったです。心理的な苦痛と治療のみ辛かったです」とお話されていました。毎年、検査をされていて、今のところ体調は安定しているようです。

イ・ソンジンさんは、私と同じ18歳で胸膜中皮腫と診断を受け、すごくショックを受けたそうです。左肺胸膜、横隔膜を摘出し腫瘍はすべて取りきれたそうです。しかし、肩の痛みがあり仕事に就くことが難しく、睡眠にも支障が出ているそうです。

座談会の質問で「アスベスト禁止団体、または被害者団体と関係が出来たきっかけは何か?」と聞かれました。

ロ・ライヤンさんは、医師から紹介されたそうです。イ・ソンジンさんは、自らの意思で石綿被害者と会いたいと思いアスベスト被害者家族協会を知ったそうです。私は石綿救済制度の申請で困っていた時に父親から患者と家族の会を聞いて出会いました。

最後に会場からの質疑応答でしたが、質問はなく2名の方からご感想をいただきました。モンゴルの活動家の方からは、「モンゴルでは、こういった活動をしてくれる若い人がいない。今後、若い患者さんがいてくれると心強いので探していきたい」と私たちも頑張っていかなければと思う前向きなご感想をいただきました。

続いて台湾の方からは、「中皮腫患者を見付けることは難しく年齢までわからない。政府が公に対応しようとしていないこともあり患者は年々増えている」とのことで、若く発症する患者がいることに驚かれたようでした。

 中皮腫自体が潜伏期間もあり、希少がんでもあるので、私も「海外に若年で発症した患者さんがいる」と聞いた時は驚きました。イ・ソンジンさんのように自分と同じ年で発症した患者さんには初めてお会いしました。私と治療方法がほぼ同じだったり、中皮腫の診断に時間がかかってしまったり、国は違っても共通する部分があることがわかりました。お二人とも病気に負けておらず、自分の経験を役立てていきたいと考えているようでした。今後、私たちのような若年で発症する患者さんを出さないためにも、アスベストの使用禁止のための発信を続けていきたいと思います。世界の方々に向けお話させていただく貴重な交流の機会に参加させていただいたことに感謝致します。

ロ・ライヤン(香港)

中皮腫という言葉を、28歳になるまで聞いたことがありませんでした。香港で非常にまれながんで、毎年確認される新たな事例はおそらく100万人に1人より少ない数です。不幸にも中皮腫にかかってしまいましたが、それが最初に腹部を侵したことはラッキーだったと思っています。ある日、私はおへそのあたりに小さな節を感じました。もしそれが他の内臓に隠れていたら、気づくチャンスがなかったかもしれないと思います。これが、私の人生の別の章のはじまりでした。

2010年に最初の大きな手術を受けました。さらに多くの小さながんがみつかり、腹腔領域全体にひろがっていました。手術台のうえで7時間すごしたのち、私のおへそはなくなってしまいましたが、少しの縫合の跡が付け加えられました。いくらかのリンパ節も影響を受け、結果的にさらに3回手術を受けることになりました。しかし、私は生き延び、その後結婚しました。

なぜ中皮腫にかかったのかは、いまもなお私にとってはミステリーです。記憶に思い出せる限りでは、仕事や生活でアスベストに直接ふれたことはありません。ひとつの可能性は、小さいころに暮らしていた場所の屋上の材料がアスベストを含有していたかもしれないことです。香港ではかつてアスベストが建材としてふつうに使われていました。私は、九龍地区の旧市街地で成長しましたが、そこでは1950年代にかなり多くのビルが建てられました。私はよく屋根のあたりで遊んでいましたが、それがこの致死的な危険のもとに私をさらすことになったのかもしれません。

私はここで、みなさんと私の話を共有する機会がもつことができてうれしいです。たくさんの不幸な方が亡くなってきましたが、私は愛と希望をもって、私たちの生活の暗闇のなかにいつでも光があると信じています。私はまた、アスベストのリスクに対する関心を高めるためにもここにきています。この見えない危険は誰の身近にもありうるのです。意識を高めて、世界にこれ以上アスベストや中皮腫の被害者がなくなることを願っています。

イ・ソンジン(韓国)

9年前、18歳のときに胸膜中皮腫と診断されたアスベスト被害者です。

私は、中皮腫になる前は、健康で体育の授業の好きな活発な子供でした。当時、高校卒業後は大学に行く予定でいましたが、家庭の事情であきらめざるを得ず、技術資格を取得するために職業訓練学校のプレス成型部門に入りました。2010年10月、高校生のときに、私は高熱を発し、近所の病院を受診しました。そのとき医師は、胸水がたまっていたことから結核と診断しました。私の状態は改善しませんでした。医師は、大学病院を受診するよう勧めました。

医師の助言にしたがって、私は、追加の生検を含む検査を受けました。結果は、99%悪性中皮腫ということでした。私は医師にこの病気は治るのか聞きましたが、彼は、この病院はがんセンターではなく一般病院なので、手術はできないと言いました。そのため、国立がんセンターのがんクリニックに転院しました。

国立がんセンターでさらにMRI検査が行われて、胸膜中皮腫と確定診断されました。私が4歳のときに、家の床の改修工事をしましたが、それはアスベストを使ったものでした。また、壊れたスレート板でつくられた、たくさんの玩具で遊びました。医師は、この子供の頃のアスベストへのばく露が中皮腫の原因かもしれないと推測しました。ただちに治療が行われ、4回の抗がん治療、右肺1回と胸部1回の切開手術、14回の化学療法と31回の放射線治療を受けました。治療はとても痛みを伴うものでした。私はそれまでこのような苦痛を体験したことはありませんでした。私はうつになり、長引く治療のために、ほとんど死にたいと思っていました。

2015年までにすべての治療が終わりました。体重が15kgも減ってしまいました。私の身体は以前のように良くはなく、また、キャリアの道も仕事も失ってしまいました。なぜこのような病気にかかってしまったのかと、悲嘆にくれ、自分自身を責めました。しかし私は、この終わりのないサイクルを断ち切りたいと願いました。強い意志で薬物鎮痛剤を打ち切り、ストレッチと軽い運動をすることによって健康を改善しました。

自分の経験から、なかなか消えない未知の痛みを伴う中皮腫とは何なのだろう、患者はどうやって生きているのだろうか知りたいと思いました。この疑問に悩んでいたとき、2018年7月に、アスベスト被害者家族協会のチョン・ジヨルさんに会いました。彼を通じて、韓国環境運動連合やアスベスト被害者を支援している市民団体の人たちを知り、アスベストについてより多くのことを知りました。アスベストは私が知っていたよりも重大な発がん物質で、労働と環境の両分野に深刻な損害を引き起こすものでした。韓国では、アスベストの使用・輸入が禁止されているとはいえ、すでに使用されたアスベストが私たちの生活のなかにいまもなお存在し、学校のなかや古いアパートの再開発で続くアスベスト曝露によって子供たちが危険にさらされている状況です。

いま私は韓国石綿追放運動ネットワーク(BANKO)の活動に参加して、私のような若いアスベスト被害者がもう現われないことを希望しています。2019年7月には国会で開催されたアスベスト被害者証言大会に参加して、被害者らと交流しました。

私はいまも慢性的な未知の痛みに悩まされていますが、他の被害者らとつながり、交流できていることは、私を以前よりも積極的にしてくれています。私は、自分が直面してきた困難を克服し、与えられた命のなかで、人々に出会い、話し、助けることができてうれしいです。アスベスト根絶のための続け、自分でしたいと思う価値のあることをもっとみつけたいと思っています。

田中奏実

私は、18歳のときに胸膜中皮腫と診断されました。ちょうど10年前のことです。

その当時、私は北海道・札幌で、昼間は短期大学で栄養士の勉強をして、夜間は別の専門学校で調理師免許をとる勉強をしていました。短期大学の定期健康診断で異常所見がみつかり、それは気胸で手術が必要だとわかりました。その出術で新たに中皮腫が疑われ、北海道には中皮腫の経験が十分な病院がないからと他の病院に移ることを勧められました。

私は、静岡がんセンターを受診し、胸膜中皮腫の診断が確認されました。それから私は、6か月間に、左肺と胸膜の全摘手術、抗がん剤治療を3クールと放射線治療を30回受けました。私は症状もなく、学校生活を本当に楽しんでいました。余命2年と宣告されても、まったくピンときませんでした。私にとって一番ショックなことは、(札幌から遠く離れた)静岡での6か月の療養生活のために、専門学校を退学せざるを得ず、また、短期大学を留年して年下のクラスメートと一年間やり直さなければならなかったことでした。栄養士の資格をとることはできたものの、手術で体力を失ったことなどから、何年も正規の仕事に就くことはできませんでした。

実際に私は何度も死のうと思ったものでした。しかし、がん生存者のためのNPOである「キャンサーサポート北海道」と2014年に出会ったことが、私自身が立ち直るきっかけを与えてくれました。私は、病院の緩和ケア病棟などでのボランティアのピアサポーターとしての活動に参加しました。また、オーナーが私の活動に協力的な菓子店でフルタイムの職に就くことができました。以来、私は心理カウンセラーとしてのスキルのアップに努めていますし、また、他のがん闘病者を支援することが私自身に元気をくれています。アスベスト疾患患者と家族の会北海道支部にも加わりました。

2017年7月に私は、石渡対策全国連絡会議(BANJAN)が30周年記念行事として東京で開催した「アジア・世界のアスベスト禁止をめざす国際会議」に参加し、2人の中皮腫患者−(1999年に静岡で腹膜中皮腫と診断された)栗田英司さんと(2016年に大阪で胸膜中皮腫と診断された)右田孝雄さんと出会いました。私たちは「中皮腫(ピア)サポートキャラバン隊」を立ち上げました。私たちは、日本全国数百人の中皮腫患者さんを自宅や病院に訪問し、患者・家族の集まりを開催及び/または参加し、長期生存中皮腫患者の話をまとめた本を出版し、独自のウエブサイト(https://asbesto.jp/)を開設し、よりよい治療や公正な補償のための取り組みを独自に及び/または他のがん患者団体や専門家と協力して行い、また、ピアサポーターのネットワークを構築しようとしています。先月、私は北海道版キャラバン隊を6つの都市−札幌、室蘭、函館、釧路、旭川、北見で開催したところです。残念なことに栗田英司さんは2019年6月に、19年半に及ぶ腹膜中皮腫との闘病の後に亡くなりました。しかし、彼は私たちに希望を与え、道を切り開いてくれました。私たちは活動を継続・拡大していますし、より多くの中皮腫患者さんが加わってくれています。

最初の6か月の治療の後、私は3か月ごとに札幌の病院及び年に一度静岡がんセンターを受診していますが、深刻な症状は出ていません。私がどこでアスベストに曝露したか確かなことはいまだにわかりません−私自身は、子どもの頃のストレスが中皮腫の発症を進めたかもしれないと勝手に思っています。いずれにしろ、自らの経験を踏まえて私はいま「がんはハンディではない」と言うことができます。私は、「自分らしく生きること」、「人のためにできる何かをすること」が誰かを幸せにすることができると思っています。